ベランダで蝉が死んでいたレポート ver.2

正式に言うと、家のリビングの窓の外で、蝉が死んでいた。

昼ごはんを食べたあと家から数歩の自販機までコーヒーを買いにいくため、玄関を開けた。右を見ると蝉が死んでいた。もうすっかり肌寒くなっているのにまだいたのか、と思った。少し体が黒くて、大きかった。きっとこんな時期まで生きていたのだから、立派に成長しきった長生きで貫禄のある蝉だったんだろうと思った。感心して私はそれに後ろ髪を引かれながらコーヒーを買うためその場を去った。

次の日、蝉は体が先日より大きくなっていた気がした。雨も降ったし水分を吸収して肥大化したのかなと、馬鹿な頭で考えてみた。そうだと思ったんだ。

次の日、一向に蝉の死骸は片付けられない。移動もしていない。ただ私の家の前にぽつんと置いてあるだけだ。死んでいるから自ら動く気配もないし、片付けられる気配もない。かといって死んでいるだけではなくて、確かにそこで生きていて、それが終わった、という風に捉えられた。でも、その存在はあってないようなものだ。まるで私みたいだった。

次の日もコーヒーを買いに行った。その日はすごく暑かった。風も少なく陽が照りつけていた。私の肌の中にまでジリジリとその温度がくるようだった。私の肌は白かった。そして腕は骨が出っ張っていて細かった。まだ蝉はいた。だんだん色が濃くなって、存在感が出てきた。何かを伝えたかったのかなと思った。言動や行動では表せない何かを必死に訴えかけてるみたいだった。

人間としての「何かをする日」という日が少なくて毎日何をしていたかを忘れていた。外に出た記憶もなければ人と会話した記憶もない。私は私なのに私ではないような感覚になった。生きているのか死んでいるのか、はたまた生きたまま人間としての機能をすべて無くしてしまっているのか。よくわからなかったけれど、とりあえず自殺せずに頑張った。ゲームをして、動画を見て、インターネットをして、それ以外は寝ていた。食事はほとんどしてないから運動もしていないのに体重は5kgぐらい落ちていた。

私は虫が嫌いだ。単純に見た目が気持ち悪いし鳴き声もうるさいし、怖いからだ。虫は怖い。私はきっと虫にさえもコミュ障なんだと思った。

次の日、母親と出かけようと玄関を開けた。右を見るとやっぱりまた蝉はいた。母親に言った。

「なんかずっといるんだけど、この蝉捨てないの?」

母親は純粋な目でこちらを見ながら真っ直ぐにこう言った。

 

「これ、蛾でしょ」

 

あの時訴えかけてたことはきっと、「私は蝉ではなくて、蛾だ」と、訴えたかったのだろう。

私は虫が嫌いだ。小学生の時好きな男の子に蝶々と蛾の見分け方を教えてもらったことがある。その子はとても頭が良くて私は憧れていた。嫌いな虫のことも頑張って覚えようとした。でもやっぱり見分けをつけるのは難しかった。

それから10年以上たった今思う。

蛾のレパートリーがすごいだけなんだ、と。