お前らはすでに死んでいる

お前らは生きているけれど死んでいる。全員私が殺した。でもお前らは生きていて、死んではいない。全員が邪魔で鬱陶しくて私の人生に必要ないと思ったから殺した。今私は誰もいない世界で1人で生きている。周りを見ても誰もいない、耳を澄ましても何も聞こえてこない。そんな世界で暮らしている。すると楽になる。今私は安全で安心な暮らしをしている。生活が怖いくらいに上手くいって、何もかもをこなすことができている。でもふと集中力が切れて何もかも嫌になるときもある。またお前らが戻ってきたと思って怖くなる。その度に何度も殺す。いなくなればいいのにいつまでもいなくならない。お前らを消さないと私は生活できないのだ。

お金を使った。給料日がきた安心からかわからないけど、クレジットカードでめちゃくちゃに欲しいものを買いまくった。何も気にせずに、支払える保証もないくせに。とても欲しいと思った洋服と読みたいと思った本を買った。ゲームも買った。しかしそれを手に入れたって何も得られた感覚はなくて、手に入ったという感覚はあまりなかった。私は何が欲しかったのかわからなくなってもっともっとお金が欲しいと思った。お金を使わなきゃと思った。でも何に使えばいいかもわからなければこれ以上何かに使ってしまっては払えなくなるという制御が働いた。自分にしては珍しかった。

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買った本にこう書いてあった。私はお金をもらえるような価値の人間ではないし、こうやって本を読んで興奮したり共感したり感動したりするのも、いけないことなんじゃないかと思ってしまう。私みたいな人にこんな良いものとされる感情を抱いていいのか、と不安になって怖くなる。でもこうやって良いものとされる感情を自分の中に生み出してないとまともに感情すら持てないし、人に対して好意や敬意も持てない。自分にすら自信もない上に毎日地球上の全他人に対して死ねと思っている自分なので、これは必要だと思って、素直に受け入れた。いい感情が続くように自分でそのいい状態をコントロールをした。

自分のことや思っていることを細かく伝えたいけど、伝えるための言葉が思いつかなかったり、文章をうまく作れなかったが、今はできるようになっていて、少しびっくりした。昔の勉強に慣れていて頭の回転が今と違って早かった学生時代みたいに、すらすらと文章が出てきて、なおかつ自分の伝えたいことなどをこういう風に文に起こすことができている。それに驚いていて、少し嬉しいという感情があった。

死にたいと思うことは減った。でも他人に対しての憎しみはやっぱりまだ消えない。なんで自分はこんなにクズなのに(根拠はない)他人に対してイライラしたり不必要とか邪魔だとか思ったりしてるんだろう。偉そうになんなんだ、ならお前(自分)が死ねよ。と思ってしまう。でもやっぱり他人がめちゃくちゃに嫌いで嫌な存在で、なるべくなら関わりたくないと思っている。でも人に愛されたいという気持ちだけは微かに残っていて、愛がないまま私は暮らしてはいけないと思っている。今はまさに愛がない状態でなにもかも満たされないまま我慢を繰り返して自分なんか愛がないのが当たり前だと言い聞かせてなんとか普通の生活を保っている。でもそれが限界に達したとき、今うまくいっていることのすべてをうまくできなくなって、いずれすべてが停止してしまって、また死にたくなって生きたくなくなるんだ、と少し不安に思う。そう思うことが「少し」なだけで自分は昔より成長してるなと思った。

ある特定の人のことを1日に数回は考えて、数回は嫌いになって、数回はめちゃくちゃに大好きになる。ボーダーなのかもしれない。この考える行為が毎日とても耐えられない。考えないようにしたいと思っていても絶対に無理になるし、時間の問題だと言い聞かせても、結局はこういうある特定の人のことを考える行為を3年ぐらいは続けている気がする。もはやこれは時間の問題ではないのだと気づいている。もしかしたら時間の問題だったとしても、もっと時間が経てばなくなるかもしれないと信じている。なるべくなら信じ続けるより早く消し去りたいので、病院に行くか薬を飲むかしたいが、それで治るわけもないとも思っている。だから今はそういう考えてしまうような時間がきたら、他のことを考えるか、飽きるまで考え続ける。飽きたら勝ちだ。このせいで他のことにも集中できなくてとても苦しい。文章は読めないし頭からポロポロ抜けていく。集中ができない。できたとしても持続しない。だから今こうやって文章を書けている自分が最高に嬉しい。ありがとう自分。

昔はやるべきことが多すぎることにイライラして、すべてを投げ出したくなっていた。あれもしなきゃこれもしなきゃ、でも全部してしまうと壊れてしまう、でも全部しなきゃいけない。もういやだ。となっていた。でも今はやるべきことが多すぎることが嬉しい。すべてを完璧とまではいかずとも、少しずつこなせている自分がとても嬉しい。嬉しい気分になったのは4年ぶりぐらいだった。ずっと自分に肯定感がなくて、自分という個体が褒められることもなく、愛されることもなく、自分自身でさえも否定を続けて、見下して、どうせ何もできないと思って諦めていた。でもすべてを少しずつこなせていて、なおかつ人に必要とされている喜びがきちんと素直に受け取れるようになっていた。そのこと自体に喜びを感じた。喜びを感じられている自分に喜びを感じれていた。私は強くなった。いや、きっと強くなったのではなく、弱い部分を隠すことができるようになっただけだ。さみしいや愛されたいや人と触れ合いたいなどという欲求が昔はあった。今もあるけれど、人生にそれが必要と思い込むことをやめたら、楽になった。その欲求を満たさなければ生きていけないと思っていたのが、その欲求を満たさなくても、自分の欲求を我慢して、消し去れば他のことを必要だと思えるようになるから、と思ってなるべく我慢をした。いらないものを排除した。そうしてみると私は楽に過ごせて、ストレスもあまり感じなくなっていた。相変わらず街を歩けば私は他人に対して絶対にうるさいだまれ死ねなどと思う。でも昔は街を歩けば、自分がブスのくせに街を歩くななどと他人に思われていると思っていた。けれど今は自分が一番で他人は私にとって邪魔でしかない。という考えにまでたどり着けた。もちろん良くはない考えだけど、自分を肯定できることが素晴らしいと思えるから、あからさまに他人に影響が出ないまでなら、まあいっか、と思っている。自分を否定して自分を見下して価値を下げて、ということはよくないと思った。でもやっぱり自分を否定することはこの先もあるだろうから、私は自分と他人の悪口を気分によって交互に言ってしまっているんだろうと思った。別にそれでもいいやと思えた。まあいいやと思える、「気にしない」ということをきちんとできている、それだけで私は楽になった。自分に対してすごいと思った。自分は偉いと思った。頑張っていると思った。頑張ってないと思われても関係ないし私はとても頑張っている。もし否定する人がいたら、許さない。だって私のことを否定していいのは私だけだから。

好きなことができているかと聞かれたら、そうではないかもしれない。でも好きなことをするためにやるべきことが多くあるから、まずはそれをこなして、頑張って進めて、それからそれが達成した後に思いっきり自分のやりたいこと、好きなことをしようと思っている。それがずっと遠い話でも、私はその遠い日まで、絶対に頑張ると決めた。私を応援する人はいない。でも私が私を応援していると思っている。誰も応援してくれないなら自分でするし、誰も自分を肯定してくれないなら自分でする。誰も好きになってくれないなら自分で好きになる。大事にする。理解されないなら理解する。自分で自分を理解して、それからできることだけを精一杯やって、好きなことに向けて頑張ることがこんなに楽だとは思わなかった。いや、好きなことに向けて頑張ることが楽だと思える自分になれたのがまずすごいことだと思った。気づいた。ファンモンの歌詞みたいになってきたからここら辺で終わるけど、鬱病なのは変わらないって覚えておいてほしい。鬱状態は1日に1回以上は必ず来る。でも私はそれさえも取っ払えるように普通の生活を普通にできている。と思っている。不安しかなくても私は絶対にお前らに見せつけてやるし、幸せな姿を全世界に発信してやろうと思っている。私が絶対に成功して、私が絶対に喜ぶ。私が絶対に絶対にお前らなんかに左右されない人生を送ってやる。と決めた。死ね。私はお前らが憎い。絶対に私はずっと私でいる。私が私であることが絶対に正解だってことを今に見てろよ。糞してら寝ろや。黙れ。糞みたいな糞でいろ。

うんこ人間死んじまえ。